『愛と日本語の惑乱』
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- 2016/03/26(Sat) -
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清水義範 『愛と日本語の惑乱』(講談社文庫)、読了。
清水節炸裂の一冊、面白かったです。 テレビ局SHKの用語委員会の委員を務めるコピーライターの主人公。 委員として、「正しい」日本語と現実の日本語の折り合いのつけ方を考えたり 学者先生に難癖をつけられて怒ったり、 出版者の校閲の五月蝿いチェックにイライラしたり。 「正しい」日本語にまつわる様々な論点を コミカルな小説仕立てで描いており、面白おかしくサラサラと読めます。 著者自身の経験も多分に入っているだろうなぁと思わせる エピソードの数々に思わず笑ってしまいます。 それにしても、なぜ日本人は、「正しい」日本語というものに かくも拘るのか・・・・というか、喧々囂々と議論したがるのでしょうか。 他の言語でも同じようなものなのでしょうか? 日本語を話す人間と、日本国籍を持つ人間と、日本国に住む人間とが ほぼほぼ重なるという状況と、日本という国の2000年近い歴史からすると 「純粋日本人が過去からずっと使い続けてきた真正の日本語」というものが あるように錯覚してしまっているのではないかと思います。 他民族の支配を受けたことがある中国や、 他の国からの移民の国である米国、 戦争により国境が幾度も変化してきた欧州などでは、 言語への執着というものは、日本人ほどには持っていないのかもしれないと思いました。 ただ、その日本人自身が、本作の主人公が学者センセにネチネチと言われたように 従来の表現を破壊して、造語や新表現、新文法を作ってしまうという 柔軟性を持っているのも、面白い特徴だなと思います。 中国から漢字を輸入し、かなとカナを作り、 欧米から横文字を輸入し、造語もたくさん作り、 各種文化を柔軟に受け入れつつも、日本流の文化に変容させてしまう そして純日本文化にも拘ってみせる(得てして「純」ではないものを「純」と思い込んでますが・・・)という 二面性を持った面白い国民性の現われなのかもしれません。 というように、私もゴチャゴチャ日本語について述べたくなってしまうところが、 まさに日本人なんでしょうね。
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