中上健次 『中上健次 選集3 木の国・根の国物語』(小学館文庫)、読了。
中上作品で三重県が関わりそうなものを読んでみたいなーと前から思ってましたが、
ブックオフでこちらを見つけたので読んでみました。
出身地の和歌山県新宮市を出発点に、昔の紀州藩にあたる和歌山と三重の町々を巡り、
市井に生きる人々から言葉を引き出し、紀州という地域の歴史の上に成り立つ文化・風習・人間性を
描き出していきます。
冒頭、紀州を「隠国(こもりく)」と表現することで、
紀州という土地の歴史の重みというか、表舞台の京都に対置した裏の世界として紀州を捉えた
本なのかなと思いながら読み始めました。
個人的には、伊勢の神々の陽の世界に対して、熊野の神々は陰の世界として捉えてます。
伊勢平野の中にあり、京の都からも大阪の都市部からも名古屋の熱田神宮からも訪れやすく
その沿道には宿場町が発展した伊勢神宮と、鬱蒼と茂った山を抜けてようやくたどり着ける熊野三山。
そりゃ、そこに住む人々の思考や暮らしぶりに影響が出るわなー、と思ってます。
そういう、紀行文と文化論のミックスされたような本かなと思っていたら、
本作の大きなテーマが「被差別部落」ということが分かってきて、
かなり重苦しい読書となりました。
自分の思い込みでは、被差別部落というのは、ある種、町の治安維持というか、
見下せる相手を社会の中で作りだすことで人々の不満を低く収めるための社会統治施策の面が
大きかったから、人口が一定数あるような都市部の問題だと勘違いしてました。
三重県で言うと、北勢地区、中勢地区のようなところに多い問題なのかと。
しかし、本作では、訪ねる先の町々で、部落問題に取り組む人や、水平社から紹介された人など
多くの被差別部落関係者が登場してきて、関西地域ではどこに行ってもついて回る問題なんだなと
改めて認識しました。
一方で、「○〇町には被差別部落があった」という言及が具体的な地名で挙げられており、
これは大丈夫なのか?と疑問に思いました。
もしかすると〇〇町というのはかなり広い町なのかもしれませんが・・・・。
部落差別問題を正面から扱う姿勢は社会にも有益だと思いますが、
町名まで出す必要性はあるのかな、新たな差別を生まないのかなと気になりました。
また、著者は紀州を飛び出して松阪を訪れ、食肉加工センターに飛び込み訪問しています。
屠畜業は以前は被差別者が職にしていた(もしくはさせられていた)という理解のため、
部落差別問題の延長線でこのセンターに来たのでしょうけれど、
「作業の見学はできるが、午前中で作業は終わったので今日はもう仕事はない」と言われ、
日を改めて訪問するのかと思いきや、そこで切り上げてしまいます。
「え?終わり?」と思ってしまいました。
解説者もこの場面を切り取って、「単なるルポ、単なる紀行文ではないのである」と
評価してますが、うーん、私は納得できませんでした。
まぁ、ジャーナリストではなく、小説家が地元への思いを書いた本だと言ってしまえば
どんな風に行動し何を考えても自由なのですが、和歌山の町々での人々との交流を思うと
なんだか淡々としてるなと思ってしまいました。
松阪は紀州ではなく伊勢の国なので、何か違っていたのかな。


