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『たったひとつの「真実」なんてない』
- 2023/05/18(Thu) -
森達也 『たったひとつの「真実」なんてない』(ちくまプリマ―新書)、読了。

これまで読んだ森達也本の中で一番面白かったです。

冒頭、北朝鮮に旅行者として訪問したときの話から始まりますが、
北朝鮮政府が指定したガイドが付きっきりで案内する中で、
ガイドさんは意外とフランクな対応なのに、街中に居る軍人や警官はビタビタの監視体制で
さらには一般の北朝鮮国民も警戒を怠らない怖い顔で遠巻きに見てくる様子。

そこで普通の日本人なら「やっぱり北朝鮮という独裁国家は・・・・・・」という感想になりがちですが、
著者の場合は、最初にそう感じながらも、日本の近代史を振り返り、
「戦前戦中の日本も天皇を頂点に同じような社会だった。北朝鮮はかつての日本」と見ます。

私自身は、あの戦争体制の責任は、すべてが天皇にあるわけではないと思いつつも、
しかし天皇の権威のもとであの体制が存続していたということは事実だと思うので、
受け入れなければいけない指摘だと思います。
現在の天皇制は、この反省を経て生まれた別物の新体制だと私は思っているので、
きちんと過去は受け止めて今に活かすことが大事ですね。

そういう日本人には痛い指摘から始まり、戦前戦中の日本中が戦争熱に浮かれていた社会を
作り上げた大きなエネルギーは、一つはマスディアが供給していたという話に入っていき、
マスメディア論、公正中立な報道とは、報道を読み見る側の市民はどのような姿勢であるべきか、
そういう多角的な指摘を積み重ねていきます。

私自身は、「公正中立」なんて状況は、マスメディアだけでなく、
この世のどこにも存在しないと思っています。
本作の中で著者も述べてますが、ニュース番組の尺に収めるためには取材テープのどの場面を使い
どの場面を捨てるのか、どういう順番でつなぐのか、どんなナレーションやテロップを重ねるのか、
そういう一つ一つの編集作業が「演出」であり、「意図」が入ってくると思います。
悪意が無くても、偏向していなくても、公正中立を目指していても、
必ず何らかの「意図」が入り込むのは仕方がないことであり、
公正中立を目指すよりも、意図は必ず入るものだという自戒を持って編集する方が
冷静な報道に繋がるのではないかと思います。

実はこれ、大学1年生の時に、学部の9割の学生が履修するという名物先生の授業で
繰り返し説明をされたものでした。新聞やテレビの言うことを鵜吞みにするな、
様々な情報を手に入れて自分の頭で客観的に判断できる視点を持て、というものでした。

課題本には本多勝一とかが含まれていたのはアレと言えばアレですが、
宿題のレポート提出で、あえて産経新聞の「戦争で日本軍は良いことをした」みたいな記事を取りあげ
「高校までの日本史の教科書では知りえなかった情報を得られたので多様な情報源は必要」という
今思うと本多勝一に対してかなり反抗的なレポートで喧嘩売ってましたわ(爆)。

当時は、大学1年生で初めて産経新聞を読む機会を得て、「こんな新聞あったのか!」と感嘆し、
逆に視野が狭まりそうな状況でした(苦笑)。
その後、産経は産経で思想の偏りが酷いなと感じることも多く、
今の自分は中道路線のつもりですが、他人から見たらどうなんでしょうね?
たぶん日本国民の95%は自分のこと中道だって思ってそうですしね(爆)。

このメディアの編集における印象の際を、著者自身が暴力事件を起こしたという作り話をネタに
取材で集めた映像カットのネタがA、B、C、D、Eとあった場合に、
AとDを採用してニュース映像を作った場合、BとEを採用してさらにE⇒Bという順で構成した場合
というような、具体的な事例を比較することで、その印象の違いが際立って具象化されました。
編集者の「どうやったら面白く見せられるか=チャンネルを変えられないか」という
ニュースそのものの本質とは無関係の意図でカットが選択され、構成順が決められ、
視聴後の印象が決定づけられるという説明に、なるほどなーと大納得できました。

大学を卒業してメディア界に就職する新人や、他業種からメディア界に転職する人は
本作を必読の書として入社前に心構えを学ぶべきだと思いますが、
でも、著者は、メディア界に居るとはいえマスコミの外の人なので、
多くのメディア人=マスコミ内の人は、軽視してそうだなぁ、と思ってしまいます。

メディアのもつ権力性を、「正義の鉄槌」だと勘違いしている間は、
マスメディアという組織も、北朝鮮と大差ないのかもしれませんね。




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『オカルト』
- 2021/07/16(Fri) -
森達也 『オカルト』(角川文庫)、読了。 

『職業欄はエスパー』の続編。
前作は、「スプーン曲げの清田益章、UFOを呼ぶ秋山眞人、ダウジングの堤裕司」の
3人にスポットを当てていましたが、本作では、その周辺に存在する
様々なオカルト的ジャンルについて取材をした様子が並んでいます。

なので、あんまり深く掘っていく感じではなく、
外堀から迫っていく感じです。

冒頭、居酒屋での清田氏とのシーンから始まるのですが、
数行読んで、「あれ?この話読んだことあるぞ」と思ったら、
2ページ目に、前作の冒頭シーンからの転載と書かれてました。
私は、読んだ端から内容を忘れていく性質なので(苦笑)、
逆にしっかり覚えていたことで、前作をどれだけ面白く読んだのか再認識できました。

さて、内容ですが、心霊写真、UFOを呼ぶ会、占いなど、様々なオカルトチックなものを取材しています。
基本的に、それらの活動に誠実に取り組んでいる人たちには、きちんと話を聞こうという
真摯な対応で取材をしている姿に好感が持てます。
一方で、ごまかそうとしたり、辻褄を合わせようとしたりする人には、はっきりと「意味が分かりません」と
言えてしまう大胆さ。
そういうところが、読んでいて面白いです。

心霊写真に関しては、「プロが持つカメラには心霊写真は写らない」という言葉が全てかなと思いました。
そもそも霊的現象という非常にファジーなものが、なぜ科学的な物体あるフィルムや写真というものに
写ることに、皆さん違和感を覚えないのかが不思議です。

そして、終盤に、超心理学を研究分野とする大学教授たちへの取材が収録されていますが、
「宇宙人の飛来、透視、スプーン曲げ、雪男、それらは全然原理が違う話なのに
 なぜか多くの人はそれらを一括りにして語ってしまう。特にテレビは」という趣旨のことを言われており、
あぁ、私がオカルト好きな人を敬遠してしまうのは、これが理由かも・・・・と思いました。
UFOもスプーン曲げも雪男も心霊写真も一つのテレビ番組で扱うことに違和感を覚えず、
通して視聴して「どれも不思議で面白かったな」と満足できる考え方が理解できないのです。

どれか一つに絞って、例えば透視ができるという超能力者を5人集めて、
5人ぞれぞれの能力を比較したり、実験したりして深堀りするなら理解できますが、
それだときっと、テレビ的には間延びして面白くないということなんでしょうね。

というわけで、私の中では、「オカルトは娯楽だ」という結論になりました。
娯楽である限りは、流行り廃りはあるでしょうけれど、
オカルトを喜ぶ人はいつの時代にも一定数が存在すると思いますし、
肝心の原理の追求そのものよりも、いろんなバリエーションが登場してきて
それらを消費することの方が好まれるんでしょうね。




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『職業欄はエスパー』
- 2021/03/16(Tue) -
森達也 『職業欄はエスパー』(角川文庫)、読了。

いわゆる「超能力」というもので生計を立てている人たちを追いかけたドキュメント番組の
メイキングと言ったらよいのでしょうか、舞台裏でのディレクターの葛藤を描いた本。

登場してくる超能力者は、「スプーン曲げの清田益章、UFOを呼ぶ秋山眞人、ダウジングの堤裕司」と
紹介されていますが、私がかろうじて名前を知っていたのはいわゆる「清田クン」だけ。

私は彼らがテレビでもてはやされていた時代よりも後の世代なので、
Mr.マリックとか、エスパー伊東とかがドンピシャなんですよね。
つまりは、「超能力者」を笑う対象に設定していた人たちが活躍した時代です。

本作で、超能力否定派がよく口にする意見として著者が挙げていた
「スプーン曲げができたとして、果たして何の意味があるのか」という点、
実は、わたしもそう思ってます。

著者はそうやって「超能力」の存在を切って捨てることに抵抗感を述べていますが、
私は、別に、この意見をもって超能力を否定する気はありません。
超能力者は存在するかもしれないし、存在しないかもしれない、
私には、それは議論したって仕方のない問題のような気がしています。

それよりも、「超能力者」と自称する人たちが、なぜスプーン曲げで満足できるのかが
理解できないというのが私の感想です。
自分に超能力があると考えている人が、最初にスプーンを曲げることに成功したとして、
そしたら次に、鉄の棒を曲げてみようとか、鉄の板から器を作ってみようとか、
そういう風に、例えばものづくりの価値の方に意識が寄っていかないのはなぜなのかなと
そこが良くわからないんです。

時々テレビには、霊視により行方不明者を捜索しようとしたり、
未解決事件を解こうとしたりする外国人の超能力者が登場しますが、
私は、この人たちの能力の有無は別として、自分の「超能力」を世の中に生かそうとする
その気持ちはとても理解できます。
まぁ、霊感商法詐欺による金儲けと紙一重みたいな部分もあるから評価は難しいですが。

でも、スプーン曲げの人って、一生スプーン曲げをやってるイメージなんですよね。
それって、テレビや世間がスプーン曲げを求め続けるからかもしれませんし、
単に清田クン個人がそういう人生を送ったとい単一の事例なのかもしれませんが。

テレビのせいで見世物みたいになってしまって、ある意味、可哀そうな人生だなぁと
思ってしまう反面、自分で見世物になりに行っているのではないかという気もします。

「超能力といえばスプーン曲げ」みたいなイメージになっちゃってますが、
私は、この定理を作り上げたユリ・ゲラーという人物は凄い人だと思います。
だって、そのあとの超能力者は、スプーン曲げで自分の能力に気づいたという人が
多いのでしょうから。
このストーリーのワンパターンさも、「超能力」という異能なワードと相反しているようで
共感できないんですよねー。

結局、本作を読み通しても、いわゆる「超能力者」たちが、
自分の能力が一生「スプーン曲げ」に費やされることに対して
どんな思いを持っているのかはかり知ることはできませんでした。
清田氏が、スプーン曲げばかりを求められることに対する反感を吐露していますが、
じゃあ、他にどんな能力があるのか、どんな能力を今後持ちたいのか、
その答えは持ち合わせていないように感じました。

スプーン曲げの代わりに出てくる超能力が、
「まっすぐ前を向いた額に1円玉を数枚重ねても落ちないように引き付けられる」というのでは、
スプーン曲げ以上に、どんな意味があるのかわからない「特技」に過ぎないように思います。

そして、彼らが語る、最初に自分が超能力者だと気づいたエピソードや、
子供のころの不思議な体験の話を聞いていると、著者自身「分裂症の症状に似ている」
と言ってますが、私も、その区別がつけられないです。

私なりの区別は、その能力が社会の役に立つんだという理論構築ができ、
かつ一定の支持を得られたら超能力者、
理論構築ができず支持も得られなければ分裂症患者です。

登場する3人は、世間の多くからはまがい物のように見られていても、
一定層からは信頼され、企業からコンサルの仕事を受けたり、個人から相談を受けたり
役に立っているようなので、だから超能力者と名乗れるのかなと。
私は彼らを役立てつすべも覚悟も持ってないので、「自称超能力者」という風にしか
見ることができないのですが。

本作で、ずっと著者自身が、超能力を信じているのか、信じていないのか
自問自答を続ける様子が繰り返し出てきますが、著者が悩んでいる姿を読むたびに
自分はどう考えているんだろうと自問するきっかけとなり、
いろいろ考えさせられた読書となりました。

良い作品だと思います。

続編もすでに購入済なので、そちらも早々に読みたいと思います。




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『放送禁止歌』
- 2019/07/19(Fri) -
森達也 『放送禁止歌』(知恵の森文庫)、読了。

ブックオフで本を物色中、本作のタイトルを見て、「なんか変な本があるなぁ」と手に取ったら
森達也作品と分かり即買い。
こりゃ骨のある本になってそうだ!と思って。
本作を読んでみたら、著者の出世作のようですね。
そこまでは知らなかった(苦笑)。

さて、そもそも「放送禁止歌」というものがあること自体を知りませんでした。
オンエアに乗せにくい歌詞の歌があった場合、日本では自主規制という名の
業界ルールができて一律規制されるという流れになるのは良く理解できます。
でも、そういうルールに抵触するような歌が、ヒット曲・歌謡曲の中に存在しているというのが
ピンとこなかったというのが正直なところです。
それは自分が、フォークソングというジャンルに無知だからだと思います。
どういう世界観を歌っているのかが分かってないから、ピンとこなかったのかなと。

本作では、放送禁止とされている歌詞の数々が紹介されており、
じっくり読むことができます。
こんな厳しい情景、寂しい情景を歌にしていたのかと改めて驚きました。
一方で、「自主規制するほどの歌詞なのかな?」という疑問を覚えたのも事実です。

この流れに部落解放同盟が登場してきて、複雑な様相を呈してきます。
同和問題で読んだ本は一冊しかないので、偏った知識しかないのですが、
本作に登場してくる解放同盟の人々は、モノゴトの本質を冷静に見ている感じで
私が持っていた恫喝グループの印象とは大違い。

同和問題って掴みどころがないなぁと改めて感じました。
私が通っていた中学校では、同和教育に熱心で、しかも熱が入った頃でした。
定期的に同和問題について話を聞く時間があったのですが、
一番印象に残っているのは、同和問題そのものについての中身ではなく、
先生が「わが校は県内で先駆けて同和問題に取り組んでいる」と誇らしげに語っていたこと。
難しい問題に自主的に取り組んでますよ!というようなポーズが
子ども心に違和感を覚えました。

そういう歪んだ意味を持つテーマなので、
マスコミ人は、基本的に自主規制したくなるんでしょうね。
その心情は良く分かります。
本作では、マスコミ人に気概はないのか!というような糾弾トーンがありますが、
正直、私は、マスコミ人とはいえ企業に属したら、自主規制には従いますわよと
テレビ局の人を擁護してしまうような気持ちになってました。
私、元金融マンなので、自主規制という業界ルールに馴染んでいて
それを一社員が跳ねのけるのは無理だと感覚的に理解できます。
著者の立場だからこそ、この問題提起ができたのだろうなと。

あと、本作では、後半にデーブ・スペクター氏との対談が収録されており、
アメリカにおける放送禁止歌の概念との比較で、日本における問題がより鮮明に描かれており
とても理解しやすかったです。

取材期間中、著者自身の心の揺れや、
部落の関係者に向けた自分の質問や視線、口から飛び出してしまった言葉など
そのまま収録し、その際に自分がどう感じていたのか、どの点に無意識だったのかも書いており、
同和問題を知識としてしか持っていない私自身がその場面に居合わせたら
どう感じるだろう、どう行動するだろうかという想像が膨らんでいき、
いろいろと多方向に思索が広がっていく読書となりました。

こんなテーマに時間をかけてガッツリ取り組んだ著者は、
やはり社会に問題を提起していく人物として、しっかり追っていかねばならないなと再認識しました。




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『いのちの食べかた』
- 2016/09/18(Sun) -
森達也 『いのちの食べかた』(角川文庫)、読了。

中学生向けに、主に屠場の話を中心に、
食肉業というか、生き物が食べ物になるまでのプロセスを描いた本。

子供に向けた本ということで、最初に思い出したのが
小学生向けに食肉の授業を行った『ブタがいた教室』
この作品は、設定があざとくて嫌らしいなと感じてしまったのですが、
取り扱かっているテーマ自体は大切な話です。

次に思い出したのが、大学時代に講義の課題図書で読んだ『ドキュメント屠場』。
正直、屠場という場を認識したのは、この時が初めてでした。
まさに、本作の著者が言うように、課題図書として読めと言われなければ
一生気にせずに暮らしていたかもしれません。

そんな気づくきっかけを与えてくれる本として、
本作は、中学生というより早い時期の子どもたちに向けて書いているという点で
大事なものなんだろうなと思います。

語りかけ口調がちょっと鼻につくようにも思ったのですが、
中学生にこのようなテーマで話をするには、やはりこんな柔らかさが必要なのでしょうかね。
もっとストレートに硬質な文章で突きつけた方が、
変な感情を与えずに読めるのではないかなと思いました。

この語りかけ口調のせいか、内容があちこちに飛んで断片的なような気がして
最後に残る印象が、差別の話だけになってしまっているような印象でした。
本作を切っ掛けにより深い本を読んでいくというのなら良いですが、
テーマがテーマだけに、本作のみの読書で終わった場合に
知識がまだらになっているのではないかなと少々懸念しました。


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『ご臨終メディア』
- 2015/01/12(Mon) -
森巣博、森達也 『ご臨終メディア』(集英社新書)、読了。

森巣博の本を実家に送っておいたら、父親がはまったみたいで
実家の本が増えてました。というわけで逆輸入(笑)。
以前、著作を読んで気になっていた森達也氏との対談から。

メディア、特にテレビの報道のあり方について意見をぶつけ合ってます。
海外在住の森巣氏が日本のテレビの異様な状況を指弾し、
それに同意しながらも、映像作家という立場から森氏は最後はメディアを信じる姿勢を取ります。

2人の意見の相違点をきちんと議論しながら進めていくので
対談することの意義がきちんと存在している本になってます。
(時々、2人が同じ方向を向いてたり全然別を向いてたりする対談というか放談があるので・・・・・)

私はどちらかというと右寄りなので、
森巣氏の主義主張には必ずしも賛同できない部分もあるのですが、
しかし、マスコミの現状への指摘については非常に納得できました。

マスコミが民意をダメにするのか、民意がマスコミをダメにするのかという議論が
本作の中で何度か繰り返されますが、私は、マスコミ人も日本人というコミュニティの
中から出てきた人々だと思えば、民意というか、日本人という集団の方に
より大きな原因があるのではないかと考えます。
このようなマスコミの存在を許容しているのも、最後は日本人なのですから。

最近、右傾化の文脈の中でテレビ局の姿勢が批判されることが増えてきましたが、
左寄りの森巣氏はどのようにお考えなんでしょうかね。
改めて意見を聞いてみたいところです。

それから、森氏の、それでもマスコミを信じるという姿勢は、
自らがその世界に身を置いているのだからそう言わざるを得ないものとしても、
やはり私は、キレイゴトに過ぎるような気がします。

完璧に客観的な報道は無理だけれども、しかし客観性は目指さなければいけないという姿勢は
なんだか良いように言いつくろって逃げ道を作っているような気がします。
それよりも、伝えるという行為は主観的なものなんだと言い切って報道してくれた方が
よっぽど潔いような気がします。

森氏の主張が、決してそういうものではないということは重々分かっているのですが、
マスコミ人たちに良いように解釈されて捻じ曲げられてしまう恐れがあるのではないかと懸念します。
この言い回しが免罪符のようになってしまうような気がするのです。
むしろ、視聴者に向けて、こっちは言いたいことをいうから覚悟して見ろ!と突きつけるぐらいの
強気な姿勢が必要なのではないかと思います。

そういう意味では、マスコミ側の方が今を変えるチャンスを持っているように思います。
でも、規制メディアには無理だな・・・・・自分で上の行を書いてて空しくなりました。
WEB上で、文章を掲げたり、映像を発信したりする人々の力により、
また、それを受けて現実世界で行動する人々の力により、
マスコミのあり方は変わっていくのでしょうね。
もしくは、マスコミが人々の関心を集めなくなる時代が急に訪れるかもしれません。

そのときこそ、本当にご臨終ですね。


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『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』
- 2014/03/14(Fri) -
森達也 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』(光文社新書)、読了。

タイトルだけ見て買って来ました。
昔話を題材に、「その後・・・」や「実は・・・」を創作した本。

軽いタッチの表現に、皮肉たっぷりの創作昔話となっているため、
面白おかしく読めます。

ただ、この本だけで、著者の主張する思想をつかむことは出来ませんでした。
断片的過ぎて。
左がかった思想の人なんだろうなと思った程度で。

ドキュメンタリー監督ということで、
相応の主張を持っている方でしょうから、
それはまた別の著作で触れたいと思います。機会があれば。


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